SEISEI INSIGHTS — 相続・事業承継
流動性のない遺産と「相続放棄」— 二つの期限と、動かせない課税ベース
2026-08-12
「資産は十分にあります。ただ、現金はほとんどありません」— 資産の大半が不動産と権利で構成されている方から、私たちはこの言葉を繰り返し聞いてきました。相続の場面で結果を決めるのは資産の総額ではなく、期限までに用意できる現金の額です。そして現金が足りないとき、相続人に残される選択肢は驚くほど限られています。
期限は二つあり、短いほうが先に来る
相続税の申告書の提出期限は、相続の開始があったことを知った日の翌日から十月以内です(相続税法第27条第1項)。納付もこれと同じで、期限内申告書を提出した者は、その提出期限までに納付しなければなりません(同法第33条)。
一方、相続を承認するか放棄するかを決める熟慮期間は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三箇月以内です(民法第915条第1項)。放棄は家庭裁判所への申述によって行います(同法第938条)。期間の伸長は、利害関係人又は検察官の請求により家庭裁判所が認めうるものとされています。
つまり「放棄するかどうか」を決めなければならない時点は、通常、「納税資金の目処が立つかどうか」が判明する時点よりも大幅に早く来ます。もっとも二つの期間は起算事由が異なり、前者は自己のために相続の開始があったことを知った時、後者は相続の開始があったことを知った日の翌日です。両方が同じ日を起点とする場合の差が七か月であって、起点がずれれば差も変わります。いずれにせよ、評価も換価の可否もまだ固まっていない段階で、後戻りのできない判断を求められる — これが第一の制約です。
現金一括が原則、延納と物納は要件つきの例外
払えなければ分割にできる、と理解されていることがありますが、条文はそこまで緩やかではありません。延納が認められるのは、納付すべき相続税額が十万円を超え、かつ納期限までに金銭で納付することを困難とする事由がある場合に、納税義務者の申請に基づき税務署長が許可したときです(相続税法第38条)。期間は原則五年以内、課税相続財産の価額に占める不動産等の価額の割合が十分の五以上であれば、不動産等に対応する部分は十五年以内、その他の部分は十年以内とされています。延納した場合には、分納税額に併せて利子税を納付しなければなりません(同法第52条)。
物納はさらにその先で、延納によっても金銭で納付することを困難とする事由がある場合に、申請により許可されうると定められています(同法第41条)。いずれも申請すれば通る制度ではなく、要件と許可を前提とした例外です。
放棄は順番を飛ばすのではなく、初めからいなかったことにする
相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなされます(民法第939条)。この効果は見た目以上に大きなものです。
被相続人の子は相続人となります(民法第887条第1項)。次の順位である直系尊属が相続人となるのは(同法第889条第1項第1号)、代襲相続人を含めて第887条により相続人となるべき者が一人も残らない場合に限られます。親等の異なる者の間では、近い者が先です。
見落とされやすいのは代襲相続です。子の代襲が生じるのは、子が相続の開始以前に死亡したとき、欠格事由に該当したとき、又は廃除によって相続権を失ったときに限られており(民法第887条第2項)、放棄はこの列挙に含まれていません。放棄しても、資産が孫に降りるわけではないのです。逆にいえば、相続の開始以前に死亡した子に子(被相続人の孫)がいれば、その孫は同項により相続人となります。したがって、他の子が全員放棄したという事実だけで順位が移るわけではありません。順位が移るのは、その孫を含め、第887条により相続人となるべき者が一人も残らないときです。
もっとも、行き先が常に法定の順位だけで決まるわけではありません。被相続人は遺言で共同相続人の相続分を定めることができ(民法第902条第1項)、遺産の分割の方法を定めることもでき(同法第908条第1項)、包括又は特定の名義で財産を処分することもできます(同法第964条)。裏を返せば、そうした定めを置いていない場合、現金がないという理由で行われた一つの手続が、誰が相続人となるかを法定の順位に委ねてしまいます。もっとも法定の順位が定めるのは相続人であって、どの財産が誰に帰属するかではありません。個々の財産の帰属は、そこで確定した共同相続人の間の遺産分割によって決まります。分割は遺産に属する物又は権利の種類及び性質、各相続人の年齢、職業、心身の状態及び生活の状況その他一切の事情を考慮して行われ(民法第906条)、共同相続人はいつでも協議で分割することができ、協議が調わないとき又は協議をすることができないときは、家庭裁判所に分割を請求することになります(同法第907条)。いずれにしても、被相続人の手を離れた場所で決まります。
放棄しても、課税ベースは縮まない
遺産に係る基礎控除額は、三千万円と、六百万円に被相続人の相続人の数を乗じた金額との合計額です(相続税法第15条第1項)。この「相続人の数」は、相続の放棄があった場合には、その放棄がなかったものとした場合における相続人の数とされています(同条第2項)。放棄によって控除額が減ることはなく、増えることもありません。
税率は超過累進で、法定相続分に応じて按分した各取得金額のうち六億円を超える部分に、百分の五十五が適用されます(同法第16条)。仮に課税価格の合計額が二十億円、相続人が一人であれば、基礎控除額は三千六百万円、課税遺産総額は十九億六千四百万円となり、同条の税率表を機械的に適用した相続税の総額は十億八百二十万円 — 課税価格に対する割合はおよそ五割です。
その入口にあるのが評価です。相続税法は、取得した財産の価額は取得の時における時価によると定めるにとどまります(同法第22条)。財産の評価に関する規定(第22条から第26条の2まで)が個別の計算方法を置いているのは地上権及び永小作権、配偶者居住権等、定期金に関する権利、立木であり、著作権や取引相場のない株式の具体的な計算方法は、法律本体には置かれていません。
制約と、その根拠
| 制約 | 根拠条文 | 構造上の意味 |
|---|---|---|
| 納税は金銭・期限は十月 | 相続税法第27条第1項、第33条 | 流動性をどこから供給するかの設計問題 |
| 放棄の判断は三箇月 | 民法第915条第1項 | 情報が揃う前に意思決定を迫られる |
| 第887条の相続人が代襲を含め一人も残らなければ次順位へ | 民法第939条、第887条、第889条第1項第1号 | 遺言等がなければ相続人は法定の順位、財産の帰属は遺産分割 |
| 基礎控除は放棄で動かない | 相続税法第15条第2項 | 課税ベースは相続人の行動では変わらない |
流動性の面では、被相続人の死亡により保険金を取得した場合、その保険金は相続又は遺贈により取得したものとみなされます(相続税法第3条第1項第1号)。非課税の扱いを受けるのは「相続人の取得した」保険金であり(同法第12条第1項第6号)、同法第3条第1項は、ここでいう相続人から相続を放棄した者を除いています。放棄した者が保険金を受け取ること自体は法が前提としていますが、その場合は遺贈により取得したものとみなされ、非課税枠は適用されません。なお非課税限度額の計算に用いる人数は、放棄がなかったものとした場合の相続人の数です。
承継先の面では、信託という枠組みがあります。信託財産とは、受託者に属する財産であって信託により管理又は処分をすべき一切の財産をいい(信託法第2条第3項)、受託者の固有財産(受託者に属する財産のうち信託財産でない一切の財産)とは区別されます(同条第8項)。信託契約による信託であれば、財産は受託者に属することとなり、委託者の遺産分割の対象となる委託者の財産ではなくなります。もっとも、信託の方法は信託契約だけではなく、遺言による方法、および委託者自身が受託者となる方法も認められており(同法第3条各号)、後者では所有者の移転そのものは生じません。いずれにせよ課税は別です。受益者等の存する信託について、適正な対価を負担せずに新たに受益者等が存するに至った場合、その者は信託に関する権利を従前の受益者等から贈与により取得したものとみなされます。従前の受益者等であった者の死亡に基因して新たに受益者等が存するに至った場合には、贈与ではなく遺贈により取得したものとみなされます(相続税法第9条の2第2項)。委託者の死亡によって信託の効力が生じる場合は同条第1項です。相続税から逃れる仕組みではありません。加えて保有期間中は、信託財産に帰せられる収益が受益者の収益とみなされ(所得税法第13条第1項)、毎年の所得税の対象となります。取得そのものについては、相続又は遺贈により取得するものに所得税を課さないと定められています(同法第9条第1項第17号)。
評価の面では、資産を法人が保有する形に変えれば、相続の対象は資産そのものではなく法人の株式に変わります。ただしそれは無償の移動ではありません。譲渡所得の基因となる資産について、法人に対する贈与、又は法人に対する著しく低い価額の対価による譲渡があった場合には、その時における価額に相当する金額により譲渡があったものとみなされます(所得税法第59条第1項)。構造をつくる時点で、課税は前倒しで生じえます。
構造の問題として捉える
私たちの経験では、相続で行き詰まる原因は資産が少ないことではなく、資産の構成と期限の構造が噛み合っていないことにあります。確認すべきは次の三点です。
- 相続の開始があったことを知った日の翌日から十月以内に、金銭として動かせる額はいくらか
- 資産の大半を占めているのは、換価に時間を要する財産か
- 承継先を決めているのは遺言や契約か、それとも法定の順位か
これらを一枚の構造図に起こし、どの期限までに何が確定していなければならないかを並べること。相続は高齢になってから考える論点と受け止められがちですが、期限の順序は年齢を選びません。平時のうちに設計しておくべき事項だと私たちは考えています。
本稿は一般的な税制情報の提供を目的とするものであり、個別の税務相談に該当するものではありません。具体的な申告・税額計算については、提携税理士をご紹介の上、有資格者が対応いたします。